『現場刑事の告発-二俣事件の真相』(現在、入手困難)のなかで、真犯人と思しき人物が名指しされているが・・・、この人物が真犯人の可能性はかなり低いと、「二俣事件の真犯人について」に記されている。 二俣事件の真犯人について:少年犯罪データベースドア 「二俣事件の真実 死んでも残るアホーだからだ」 冤罪乱造のキーパーソンは、紅林麻雄であるが、当時の司法捜査状況(自白偏重)にあって、警察のみならず検察(検事)、裁判所(判事)さえもが、紅林の行為を黙認(助長)していた、冤罪乱造のトライアングル(警察、検察、裁判所)構造があったことも見過ごしてはならない。 冤罪乱造コンビ 古畑種基 紅林麻雄
時として、冤罪乱造鬼には、更に強力な冤罪乱造パートナーが登場する。 法医学者の古畑種基である。 当時、法医学会の権威ということだったが、生前にも古畑種基が証拠を捏造、あるいは検察の証拠捏造を黙認したという 噂が流れていた。1975年、古畑種基が死亡してから、古畑が鑑定にかかわった冤罪事件の再審が一斉にはじまった。
紅林麻雄と古畑種基が、ともに関わった冤罪事件(島田事件)では、 被害者は(再審による無罪判決は得たが)34年8ヶ月間もの間、身柄を拘束され、29年8ヶ月は死刑囚としてすごさざるを得なかった。
(ここでは詳しく述べないが)古畑種基が証拠捏造したかどうか定かではないが、仮に証拠を捏造していなかったとしても、 権威に胡坐をかいて、実に杜撰な法医学鑑定をおこなっていたことは間違いなかろう。
冤罪乱造鬼の協力者は他にもいる。冤罪裁判(二俣事件)において、検察、警察の意向に沿った形で、 証人(山崎兵八氏)の精神鑑定をおこなって、証人から運転免許証を奪った者どもだ。 正義の人、山崎兵八 - 昔のニュース、今の記録 袴田事件を作った張本人は、もうとっくに死んでいた。
二俣事件 関連年譜 | |
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1950/01/06 [s25] |
静岡県磐田郡二俣町(当時)の民家で一家4人の惨殺事件発生。。 |
1950/02/23 [s25] |
近所に住む少年S(当時18歳)を容疑者として逮捕。 |
1950/11/23 [s25] |
読売新聞に拷問を告発する記事が大きくでた。 |
1950/12/27 [s25] |
静岡地方裁判所、少年に死刑判決を下した。少年側は無実・無罪を主張して控訴。 |
1951/09/29 [s26] |
東京高等裁判所、控訴を棄却。少年は無実・無罪を主張して上告。清瀬一郎が弁護人につく。 |
1953/11/27 [s28] |
最高裁判所は原判決を破棄。 |
1956/09/20 [s31] |
静岡地裁、無罪判決をした。検察は控訴。 |
1957/10/26 [s32] |
東京高裁は控訴を棄却。検察は上告を断念し、元少年の無罪が確定した。 |
1959/12/21? [s34] |
紅林麻雄、『週刊文春』12月21日号に反論手記「真実は犯人だけが知っている」を寄せた。 |
1960/05/__? [s35] |
『世界』5月号「危険きわまる紅林警部の手記」を掲載。 |
1962/07/31 [s37] |
紅林麻雄、警察を辞職。 |
1962/09/16 [s37] |
紅林麻雄、脳出血にて死亡(享年55歳)。 |
2001/08/__ [h13] |
山崎兵八氏死亡(享年87歳)。 |
2008/__/__ [h20] |
須藤満雄氏(冤罪被害者)死亡(享年77歳)。 |
参考文献 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心 |
紅林麻雄が関与した主な冤罪事件 幸浦事件[1948/11/29] 二俣事件[1950/01/06] 小島事件[1950/05/10] 島田事件[1954/03/10] 古畑鑑定による(古畑種基が関与した主な)冤罪事件 弘前大学教授夫人殺人事件[1949/08/06] 財田川事件[1950/02/28] 松山事件[1955/10/18] 島田事件[1954/03/10]
えん罪事件と誤った科学者の鑑定 - 再審えん罪事件全国連絡会
古畑種基と冤罪事件 - 礫川全次のコラムと名言