亡命ロシア人の息子、ウクライナ・キエフ出身のユダヤ人。フランスに移住後、さまざまな職業を転々とした後、1931年にバイヨンヌ市立信用金庫を設立。 同信用金庫を使って、5億フランを超えるともいわ債券を発行したが、債券発行の担保として供された宝石類が盗品あるいは模造品であることが発覚。 時の政権関係者が債券の販売に手を貸していたことから、一大疑獄に発展。
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Alexandre Stavisky | Simon Arlette |
アレックス・スタヴィスキー | シモン・アレッテ |
主演:ジャン・ポール・ベルモント、監督:アラン・ルネ
「幸福は一瞬だが、快楽には時間がかかる」(スタビスキー)。 「私にとって、これは詐欺についての夢想のようなもので、詐欺とはつまり死を忘れるための競争のようなものだと考えた」(アラン・レネ監督)。
原題は「スタビスキー(Stavisky)」だ。邦題には薔薇がついているが・・・実は薔薇ではなくカーネーションらしい。 薔薇のスタビスキー :Cartouche 【母の日】カーネーションとバラの違いはどこで見分ける? 映画「薔薇のスタビスキー」 - Staff Blog
アレクサンドル・スタヴィスキー 関連年表 |
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1886/11/20 |
アレクサンドル・スタヴィスキー、ウクライナ・スロヴォトカで生まれる。
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1894/__/__ |
この頃、父と二人でフランスに流れついた。父はフランス西南部のバイヨンヌ市で歯科医を開業。
官立高等中学を中退しパリに出奔、不良仲間に入った。売春仲介(白奴法)と窃盗で二、三度拘束された形跡がある。 |
1910/__/__ | フランスに帰化。 |
1922/__/__ |
突如、国際決済銀行関係者の一人として、登場。フランス代表のボンネ(前蔵相)の懐刀として経済会議に乗り込む。ハンガリア農業資金の貸し出しで2億フランばかり儲けた。
6カ月の刑で入獄。出獄後、偽造宝石入質でまたも入獄。悲観した父親が自殺(尊属殺人の容疑があったがうやむやになる)。 |
1926/__/__ | いくつかの窃盗事件でマルリー・ル・ロイにて逮捕。懲役18カ月の刑を宣告され、1926年にパリの刑務所に収監された。 |
1928/__/__ |
出獄後、アレッティ・シモン(arlette simon)と結婚(一男一女をもうける)。
アレックス商事設立。宝石販売などいろんな商売に手を出し、公営賭博場(カジノ)に出入りして巨利を得た。 |
1931/__/__ |
バイヨンヌ市議会の賛助でバイヨンヌ市立信用金庫を設立。
国際土木融資公庫を設立。 |
1933/__/__ | ロシア10月革命の英雄、レオン・トロッキー、スターリンとの政争に敗れフランスに逃れてきた。映画では小舟で浜辺をめざしてるトロッキーを迎えるシーンからはじまる・・・映画の解説では30年としているが、Wikipedia(レフ・トロツキー)ではフランスにきたのは33年と記されている。 |
1933/12/23 |
バイヨンヌ市立信用金庫のディレクター、ギュスターブ・ティシエは詐欺(235百万フランの偽造証券を流通)で逮捕。
すぐに金庫の創設者・スタヴィスキーとバイヨンヌ市副市長・ドミニク・ジョセフ・ガートが黒幕と判明。
スタヴィスキーは過去数年間に複数回、詐欺で起訴されていた。 |
1934/01/08 |
フランス、モン・ブランのふもと、シャモニーの山荘にて死亡。
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1935/06/__ |
社会党・共産党・急進社会党の三党を中心にして反ファシズム統一戦線が成立。
フランス人民戦線 |
STAVISKY Serge Alexandre(1886-1934)
Simon Arlette - Mémoires de Guerre L’Affaire Stavisky | National Vanguard | |
久生十蘭『十字街』(1951/01/01-1951/06/17朝日新聞夕刊に連載後、1952年朝日新聞社より刊行)。 『十字街』は創作物であるが、スタヴィスキーの生い立ち、略歴の部分は事実らしく、参考にさせていただいた。 |